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gaikaku-housuiro

音の迷宮 _ Sound Labyrinth 2001.07.15 開催
[text only][photo]
 写真家新良太(アタラシリョウタ)氏から案内をいただき、「音の迷宮」というイベントにいってみた。これは首都圏外郭放水路の完成記念イベントであり、この巨大施設が一般の目に触れる最後の機会である。
 場所は埼玉県庄和町。東武野田線南桜井駅からシャトルバスに乗って会場まで赴く。地上設備もほとんど完成しているようであるが、敷地全体の外構はこれからのようで、暑い日差しの中砂埃が舞っている。国土交通省主催のイベントだけあってなかなか大掛かりなイベントであった。
 地下への入り口は地上から数メートル上がったところから入っていく。昔訪れたエジプトのピラミッド入り口を連想させる。四角い立坑沿いに階段が設けられており、20mの深さまで一気に降りていく。地上は汗ばむ陽気であったが一段一段降りていくたびに気温が下がっていくのが体感できる。見上げると地上の明かりとどこからか流れてくる水滴が降ってきている。
 立坑から中に入る。いきなりの暗闇に目が追いついていかない。工事現場特有のコンクリート打ち放しの粉っぽいにおいがあたりに漂っている。照明は所々にあるが、全体を照らすには数が少ない。さらにイベント会場である調圧水槽に入る。
 すでにイベントは開始されている。カガリ火や蝋燭が点々と置かれており、新氏の写真も壁沿いに展示されている。遠くに日の光が見えるが、通常の空間との違和感があるためにそこまでの距離感がつかめない。シルエットになっている人の姿でようやく奥の立坑の巨大さがうかがえる。
 巨大な柱が立ち並ぶこの空間は、日常生活にはないスケール感をもって来場者を迎えている。配布されていたパンフレットにはパルテノン神殿との比較がされているが、このシンプルな柱と配置はハトシュプト葬祭殿に近いのではないか。第一印象はあきらかに神殿などの宗教空間のようである。
 奥の立坑に近づく。40mという立坑は安全措置のために直前まで近くまで寄って覗き込むことは出来ないが、明らかに桁違いの空気のヴォリュームが感じられる。人の肌のセンサーでしょうか。微妙な風速や温度、光の屈折具合、さらに音の反響具合がそう判断させている。
 イベントはこの長い残響時間を持つ空間を使った音楽イベントがメインであったが、自分にとっては肌に感じられることが最大の収穫であった。土木施設であるが、機能から掘り出されたこの排水路の形態にはモダニズム建築にも似たストイックさがある。
 ではなぜこの空間の第一印象は宗教空間的なものなのであるか。まず第一に宗教空間に似たスケール感である。最近はさまざまな施設でアトリウム空間がつくられ、高いスケールもあながち非日常的とはいえなくなってきているが、まったく何もない空間、(本来はあるのだが)用途の想像を拒否するような空間のため、類似している空間が宗教空間なのであろう。
 もうひとつには闇の存在である。現代の建築にはそのほとんどが過剰ともいえる照明がつけられており、街路といえどもコンビニや自販機の明かりから姿を隠すのは容易ではない。またガラスで作られる建築も多く、まさに光で満ち溢れた空間が時代の先端をいく空間になっているのである。しかし古代から中世の宗教施設には人工的な明かりを設けることは容易ではなく、また蝋燭などの燃焼系の照明装置の造りだす灯りには、逆に揺らぎや照度の低さから余計に闇を意識させるのである。イベントの最中、蝋燭の出す蝋煙が会場にこもり過ぎるため、本来は開けていなかった天井の開口部を開けた時である。クレーンを使い板を徐々に開けられていくにしたがって、光が侵入してきたのである。立ち込める煙の中に道筋をつくりながら進んでいる光には、普段感じられない手ごたえといった物理的なものが感じられてた。光の中に入った人、そしてそれを見た人はほとんど例外なく神々しいといった感想を抱いてしまうだろう。神の存在を信じていなかろうと、力のある光の存在には遺伝子にでも組み込まれているような記憶が揺すぶられるのであろうか。
 ゆうなればこの排水路は現代の神殿とでもいっても過言ではない。もちろん神殿といってもささげ物もなければ、神をたたえる神官もいない。もちろん現代には神はもう生きていないであろうし、人も神の存在を感知しえなくなっている。ではこの現代の神殿は何を崇めているのだろうか。おそらくそれは人間の技術であり力であろう。巨大な橋や建物を見たときに感じる心湧き踊るような気持ちはあきらかに人間の技術に対する感嘆であり、人間の自然に対する驕りも含めた制圧感であろう。
 もちろんすでに時代は科学技術を単純に信奉できるような明るい材料がそろっているわけではない。様様な問題を解決しなくては人間に適した地球環境を維持しえなくなってきている。新氏の作品をみるとそこに人は写っていない。ミュージシャンのグラビアで使われている写真を見ても明らかに人間という存在はこの施設の存在感に負けている。それはこの施設が持つ時間への蓄積量が人間の持てる量をはるかに超えていることを感じるからではないか。人は滅びてもこの施設は物質として存在しえていくのではないか。そんなふうに感じるのである。
 自分が普段かかわっている建築とは明らかに肌さわりが違う空間。様様なスケールを超えている空間。建築だけが空間を想像できるのではないことを思い知らされたイベントであった。

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